馬肥ゆる秋、、はもうちょっと
朝が過ごしやすくなってきた。そう思って空を見上げると今日は特に空が高く見える。秋の足音が聞こえてきた。夏の疲れが出ないようにしないといけないな。
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朝が過ごしやすくなってきた。そう思って空を見上げると今日は特に空が高く見える。秋の足音が聞こえてきた。夏の疲れが出ないようにしないといけないな。
JR草津駅で見かけた保線作業用の車。いいなこれ、ミゼットみたいな顔をしていて4人乗り。発電機の様な小型のエンジンが一番後ろに積んである。これがあると日本中勝手に旅行できるかな、、、ただし電車が動いてないと言う前提で。
今日は仕事で住道へ行っていた。何年かぶりなのだが駅前の変貌ぶりには驚いた。すっかり再開発されていて、昔の面影が全くなかった。そう言えば今世紀に入っていっていないか?
でも、今日の蒸し暑さには参った、、、気温は32度位でも湿度は80%近くあったのではないか?なんか体が発熱して頭はクラクラ。思わず冷たいコーヒーでクールダウン。早く涼しくなって欲しい。。
西本願寺
今日は父親の命日だ。京都の西本願寺に家内と一緒にお参りに行ってきた。早い物で父親が死んで既に28年。あの日も暑い夏の日だった。26日の夜、母親と交代で病室に泊まったが、丁度第1回目の24時間テレビをやっており、ゴダイゴのガンダーラを聞いていい歌だなと思っていた翌朝の事だった。
改修工事
2011年に親鸞聖人の750回忌法要をするとの事で今から改修工事が始めるらしい。えらく気の早い話だがそれ位時間のかかる事なのだろうか。
お彼岸やお盆と違って単なる日曜日の午前なので人は少ない。
改修中
看板を見るとこの06年7月から09年3月迄、2年8ヶ月に及ぶ工事だそうだ。本堂に行くと中はがらんどうで既に本尊も移動していた。ちょっとありがたみが薄れるが『許せ親父!』と心の中で謝っておく。
北側の小道を登ると清水寺に出る。結構距離があるので今日は遠慮しておいた。もっと季節の良い時に行きたい。
百日紅
百日紅が花を咲かせている。「くれない」と言うより濃いピンクだろうか?
幽霊子育飴
大谷さんからブラブラと四条河原町方面へ歩いていく。途中で写真の飴屋さんを見つける。日本昔話でも有名かな?母親が幽霊となり、子供に水あめを与えたとか言うお話。場所も「六道の辻」だと思うんであの世とこの世の境目、さもありなんの場所にある。
笑門来福
笑門とある。これいいな。どんなまじないがあるのだろうか?
昼の先斗町
全く普通の路地である。夜になればあたりは一変し、別の世界に変貌する。そんな身分になれないが、会社のお金でいっぺん来てみたいな~。
高瀬川
今日の京都はかなり涼し目である。高瀬川のせせらぎも心なしか夏の終わりを告げているようだ。
昼の顔
猥雑な横丁をあちこちすり抜けて行く。
この後は何時もの所で食事を済ませ、高島屋の地下で母親の好きな奈良漬と小鯛のささ漬けを買う。遠方にいる母親に宅急便で送るのだが、2品目からは何品でも同日着なら送料無料との事。それもにおい移りしないように別々の梱包でだ。やるな高島屋。次からも贔屓させてもらうぜ。
サンフラワー号デッキ
これは8月16日~19日で九州へ帰省した際のブラブラ日記。折りしも台風10号が近畿から九州へ接近し、出航できるか危ぶまれたが、16日の夕刻には無事大阪は南港から出航。写真は一風呂浴びてデッキに出た時の一枚。空には星が綺麗に瞬いていた。
2等船室にて
船を使ったのは旅気分を味わいたかった事と、多少は空いているかな?の期待から。結果はかくの如しで結構一杯。2等寝台は龍谷大学テニスサークルの超団体さんでほぼ満室、2等は年寄りと子供ばっかりと言う雰囲気。でも3つを2人で使う感じで非常に楽だった。
夜明け前
10時に船内消灯だったが、朝は6時20分に別府港に到着するので皆5時過ぎには起き出して準備を始める。写真は下関付近を航行していている所。分厚い雲と時折小雨がぱらつく。
朝定食
別府港には定刻で到着。もたもたしているとタクシーが切れるのでそそくさと移動。写真をとっている時間が無かった。別府港からJR別府駅までタクシーで移動し、JRで大分まで移動。別府駅では出張の時によく使う所はまだ朝が早かったか閉まっていたので、乗り換え待ちの大分駅のうどん屋で朝定。
特急ゆふ号
大分から目的地の日田までは特急ゆふ号を利用。ゆふ号は前後がパノラマカーになっていて天気が良ければ非常に見晴らしが良い。でも生憎の荒天。雨で景色が見えない。
湯布院駅
有名な湯布院だが、駅の佇まいはひっそりとした田舎の駅。ゆっくり時間を過ごしたいなら最適。温泉だけなら別府の鉄輪や明礬温泉が良いと思う。
少しの乗客
湯布院で母と娘さんの2人が乗車しただけの空いている列車。ここでものんびりした時間が流れる。
天領日田
家内の実家がある日田駅に到着。途中まで降っていた雨はこちらではまだ。義父が迎えに来てくれていた。少し前から体調を崩していたが、元気そうで何より。
日田温泉
明日の夜は3姉妹家族で日田温泉街にある旅館貸切で宿泊。遊船を出して鵜飼い見物をする予定だが、台風の影響でかなり厳しい。
ガイドマップ
実家で人心地ついたあと、日田の旧市街をブラブラ散歩する。
日田は歴史のある旧い街で、江戸の時代には最も大きな勢力を持つ代官所があった。南に位置する島津藩に睨みをきかす役割だったのだが、故に幕府直轄の天領。町並みは整理されており、九州の山間にある小京都と言う面持ちである。
清酒クンチョウ
このずっと奥にはクンチョウ酒造さんある。清酒クンチョウの他に三隈と言う焼酎も有名と聞く。
江戸の町並み
景観保存地区になっているのだろうか。どちらの店も民家も一定の外観基準で建てられている。お店は良いとして一般のお宅は大変だろう。
郵便局
日田郵便局。郵便局まで外観に気を使って白壁に瓦葺ときている。でもポストは現行品でマイナス4点。
横丁散策
横丁にも景観保存がなされている。小京都なら飛騨高山も立地から似ているのかも知れないが、商業の盛んな街だったので元商家だった所が多い。
天領下駄?
松山のぼっちゃん下駄は有名で私も買った。天領日田げたが有名かどうかは知らない。でも、日田は林業の盛んな所で良質な木が取れるので不思議ではない。
そういえば結婚前に日田と聞くと日田林業高校を思い出した。『日田林』として高校野球では有名だったが、今では静岡県の天竜林業と並んで単科の林業高校は稀有な存在となっている。
広瀬資料館
日田で最も有名なのは広瀬淡窓。江戸末期から活躍し、江戸でもなく、京都でもなく、大坂でもなく、この日田で開かれた私塾には当時最高の門弟が集まったと言われている。
変らないもの
景観保存の為とは思いがたいが、なかなかに面持ちのあるお宅。
串ぬれせんべい
ぬれせんべいが串に刺してある。食べ歩きにひと串とあるが、喉が渇いて仕方が無い。後でと思っていたら、そのまま忘れてしまった。
薬局
薬局である事は看板を読んで初めて気づいた。うちの母親は京都出身だが、その実家そっくりで驚いた。
キンチョウの夏
で、横にはさりげなくこんな看板が、、水原弘や由美かおるのアースじゃなくて良かった。
味噌や
赤い傘に惹かれて行けば、そこは味噌やさんだった。確かに味噌と醤油は一緒にあってしかるべし。旨いんだろうな~と言う事で後で銘柄は違うが日田製の物を家内に買ってきてもらった。
横丁へふらり
また横丁を探索。普通のお宅が多い。
大正浪漫
大正時代に建ったのだろうか?歯医者さんだが窓を見ると手ふきのガラスを使っていた。割れた後もあってそのまま使っているのだろう。
西と南、ゆれる天候。晴れたり曇ったりだが台風10号がどんどん接近してくるようだ。
時計や
時計屋さんと言うのも店の中を見て初めて判った。えらい懲りようだ。
花月川
筑後川の支流である花月川。名前がいいな。それに秋には岸辺にコスモスが一杯咲き乱れるそうだ。
日田弁講座
日田弁がある。それで書かれた看板で他にもあちこちにあった。義父は当然全て判ったが、家内や妹は知らない言い方があるようだ。以下行ってみよう。
こんなのとか、、
あんなのとか、、
そんなのである
花月川に出た後、また市街地へ戻る。
祇園山鉾
日田にも祇園山鉾があり、高さは11mに達すると言う。写真の奥にあるお蔵には山鉾が保管されている。
日田の天領水
そういえば日田の天領水も今や全国区と成る程有名だ。で、街を見ると実に豊富な水がある。あちらでも、こちらでも水路があり、生活用水も流れ込んでいるのだろうが水量が豊富なのか綺麗な流れになっている。聞けば何処を掘っても水が出るそうだ。
かぽえいら
なんで剣道とカポエイラ?
異種格闘技好きの店主の趣味か、はたまたブラジルからの出稼ぎの方が多いのか?
天領日田資料館
日田の歴史にまつわる資料館。昔入館した事があるのだが、内容はちょっと今は思い出せない。
プロムナード
日田資料館のプロムナード。入ろうか考えたがまた次回に延期。
豆田の商家街
寅さんでも撮影された豆田の商家街。そのまま喫茶店やお店になっている。また、ひな祭りの時には旧家から雛人形が出され、それは見事な、見ごたえのある物ばかりだそうだ。真夏だからちょっと時期的に関係ない。
きよし
何故か前川 清のコンサート。がんばってる。
夏休み
整理された旧市街を少し外れると良く知っている、どこにでもある夏休みの光景があった。
咸宜園
広瀬淡窓が開いた私塾、咸宜園。咸宜とは「ALL OK!」と言う意味だそうで、ことごとくよろしいとなる。咸と言う字を使った物で思い出したのが咸臨丸。この咸臨は易経からとられていて「君と臣が互いに親しみ合う事」だそう。
「鋭きも鈍きもともに捨てがたし 錐と槌との使い分けなば」
淡窓の言葉とされているが、人にはそれぞれ異なった能力があり、適材適所を行えば皆能力を発揮すると言う事を一生説いた人である。
淡窓や咸宜園の細かい内容は別の機会とするが、一代で3千人の門弟を世に送り出した。門弟の子孫で有名なのは経団連会長であるキヤノンの御手洗さん。私が座った場所に座り、同じ扇風機の風を受けていたのだが、違いは大きいな~。
だが、咸宜園のカリキュラムが今の教育制度の基になっている点がすごい。身分の違いなく、進度を学年で分ける明治以降の教育制度の礎になった事は間違いないと思う。外国では貴族と平民、或いは富裕民と貧民が同じ教育を受ける事例は無い。
今の様に交通の発達した時代ならいざ知らず、200年前の日本で大坂や京都からこの地に来て、国(この時は藩か)の将来を考え、論じた人達の熱意には敬意を表さずにはいられない。日本地図を見て日田の位置を見た時に尚更感じる事である。
今、咸宜園は史跡公園として整備されひっそりとたたずんでる。
九州銘菓
「べべんちょ」とは肩車のことだそうだ。大阪ではこの後に「‥かんじょ かぎしめた」となる。
旧月隈小学校
家内の出た小学校で以前は月隈小学校。今は名前が変り咸宜小学校となっているとの事だった。
本日はこれまで。
その夜は台風が九州上陸、自転車並みの速度で移動。明け方には熊本の方へ過ぎ去ってはいたが、、何とか過ぎ去ってはいたので一行は移動を開始。まずは近くにあるサッポロビール工場へ見学に行った。
男は黙って
サッポロビールの新九州工場。水が綺麗で豊富な所で無いとビール工場はできません。山間の台地にあり、実に恵まれた環境でビールを作っている。
レクチャー
まず最初にビールのあれこれを伺う。ビール作りの工程は良く知らないが、この時初めてホップと言うのを触った。はっきり言って変な匂いだ。これであのビールができるなんて信じられない。
醸造タンク
ラッキー恵比寿
恵比寿ビールには秘密があった。何十本に1本の割合でラッキー恵比寿があるのだ。さてラッキー恵比寿とは何か? それは言えないから秘密となる。
ビン詰めライン
実際ラインが動いていた。最終検査の工程は目視でやっておりすごいスピードでビンが流れる。半分以下の速度で動くデモ機を見たが、それでも目が回る。皆さん、ご苦労さまです。
さて、この後はお決まりの試飲コーナーへ。350CC程度のグラスで一人3杯までの制約がついているが無料のサービス。「今できました」と言うビールが飲める。ビンや缶に詰められた物より苦味が少し強く感じるが、のど越しと後味が良い。こんな旨いビールが飲める幸せに感謝。
ハハハ、写真を撮るのをすっかり忘れてしまった。
昭和レトロ
ご機嫌さんとなって館内あちこち見学する。写真は昭和初期からのラベル、ポスターなどの展示室。昭和レトロの漂う空間である。他にも売店などあり、色々お土産が売っているが、北海道物産も多数あり、サッポロである事を思い出す。
どっこらしょ
すっかり台風10号が居ついてしまった。台風は「ほとんど動かず」と初めて聞く速度となっている。
さて、館内見学と試飲の後は昼食。建物横にはビアホールがあり、美味しいビールと一緒に食事が取れる。
ジンギスカン
やっぱり普段とは違う物を頼みたいのでジンギスカンにする。初めて知ったがジンギスカンをする時は先にモヤシやキャベツを置いてその上に肉を置く。つまり蒸し焼きにするんだそうだ。今まで直接肉を載せて焼いていたが、確かにこのやり方だと肉が柔らかい。またお腹一杯になったが黒ビールが旨かった。
三隈川増水中
サッポロビール工場を後に日田温泉街へ戻る。温泉街は三隈川の岸辺にあり、川岸に降りれる様になっている。宿泊した旅館は4部屋しかない小さい旅館なので我々家族で貸切となった。ちょっと怖い仲居さんがいたが、それでも気兼ねなくくつろげた。
残骸
雨が上がっていたので腹ごなしに岸辺を散歩する。途中に沈降橋があり、その橋げたには無残な姿をした小船があった。昨夜からの雨と風で流されここで絶命した模様。南無。
橋の上には完全に沈下した後が一杯あった。川上も含めて相当な雨量だったようだ。甥っ子がいたずらをしている。おいおい、気をつけろよ。
亀山公園
川の中洲付近にある亀山公園(きざんこうえん)。三隈三丘(日隈・月隈・星隈)に数えられる物の一つであり、安土桃山時代に築かれた日隈城跡でもあると書いてあった。日・月・星とはなかなか占星術的なネーミングだと感心。
鬱蒼
鬱蒼と茂った杜に続く参道。山頂には日隈神社があり桜の名所だそうだ。水面に映る桜を撮影しに来てみたい。
激流
川上で車が取り残されたニュースが流れていたがさもありなん。こんな所に落ちたら泳ぎの得手不得手には関係なく土左衛門だ。君子危うきに近寄らず。
夕食前菜
さて、あちこち散歩も済ませ、風呂にもゆっくり入り、すっかりお腹は減った。遊船はやっぱり駄目だった。鵜飼いの鵜匠が川流れしそうな位に増水しておりとても船を出せる状態では無い。加えて鮎漁もできず、獲れたての鮎も食べる事ができない。その代わりに佐賀牛のステーキが出たのだが、食いに走って写真を忘れた。ハハハ、、。
二日目はここまで。
時折小雨がぱらつく。今日も天気が悪い。台風10号に思いっきり恨みを言う。
さて、朝ごはんを目一杯頂き、ゆっくりと旅館を出るが、実家に戻る途中でベスト電器に寄る。3姉妹が共同で父母の金婚式のお祝いにデジカメをプレゼントすると言う。どれが良いか聞かれたが、やはり液晶が大きく表示文字も大きい。ボタンが少なくて肝心な操作が簡単。手ぶれし難いのが良い。これら要件を満たすのがカシオのデジカメだった。
自宅に戻り、早速スライドショーをTVで行うとこれが非常に受けた。私や妹夫婦のデジカメはSDだったのでそれを刺してTVに写すのだが、皆で見るのがこれほど楽しい物とは思わなかった。使い方を義母にレクチャーする。実に優しくできており直ぐに覚えて頂いた。
帰路につく
帰りの電車を待つ。来た時に乗ったのと同じゆふ号で、博多に向かう。帰りは私一人なので飛行機を選んでいた。
線路は続くよ
はっきり言って乗車時間は30分程度だった。博多終点なので気楽に昼間からビールを飲んで寝ていた。車窓の景色も曇り空、雨模様とはっきりしない。
気温23度
福岡空港で23度。非常に涼しい。これまた台風の影響だろうが23度と非常に涼しい気温である。半そで一枚では寒い位だ。台風の影響で昨日は飛行機の欠航が相次いでいたが、今日は韓国行きのほかは通常通り飛んでいた。
休みの終わり
8月12日から続く休みもおしまい。今年の休みは前半はのんびり何もせずウォーキングに汗を流したが、後半は飲み三昧、食い三昧で満足だ。私の九州帰省は6~7年ぶりとなったが義父母も元気そうで何よりだった。また、姉や妹夫婦の子供たちも大きくなっており、こちらの年齢を感じてしまった。
因みに家内は8月23日まで夏休みを延長した。
東京出張が7月か8月に入るかな?と密かに期待していましたが、残念ながら行けなかったので東京国立博物館での展示は見ること叶わなかったのです。
でも、来月の23日から京都国立近代美術館で伊藤若冲と江戸絵画展が開かれます。若冲は京都の人なのでむしろこっちがいいかと。。これには是非とも行きたい。いや絶対行く!
既にTVや雑誌で何度も登場していますが、興味のある方はこちらへ、、芸術の秋を京都で満喫しましょう!
キャノンデジタルラボ梅田
キヤノンのNEW Kissを見たかったのでデジタルラボ梅田に行ってきた。発売前なのだが、是非ともいじり倒したかった。
ちょっと借用
ちょっと写真を借用。不都合があれば直ぐに削除します。
まず、第一印象は軽い!。液晶でかい!。ボディはポリカーボネイトに導電体を混ぜた物らしいが、軽いの何の。でもグリップもプラスチックでできており、ホールディングが悪いのが気になる。ファインダーは以前と同じか、少し大きくなったか?
カタログ
CMOSセンサは1000万画素になり処理するパソコンも中々大変。お掃除モードにしてじっくりセンサも肉眼で確認したが、見てもよく判らない。2.5インチの液晶は30Dなどと同じでり少し緑っぽいと言うか切れの悪さが気になった。液晶では松下のコンデジについているのが一番美しいと感じる。
因みに第2液晶と言うか、情報表示窓が無くなり、KMのαの様に2.5インチの液晶に情報が映し出されるが、表示が大きくて見やすい。これならシニアでも問題無しだ。意外にこう言うインターフェイスは大事。また、表示が出たまま接眼部に目を当てるとセンサが働いて液晶が消える。ボタン操作やシャッター半押しで消灯でも良いが、あれば意外に便利な機能だ。
シェア1位のキヤノンが満を持して出したデジ一だが、狙いは明確。小学生程度の子供のいるお父さん、お母さん。それと定年を迎える団塊シニア世代。やっぱり100万台以上は売れるカメラと思う(前々と前モデルで350万台)。
今回の発表で一番あおりを食うのはニコンD80だと思う。ダストが付いているからソニーのαと真っ向から競合するスペック。キヤノンはレンズ手ぶれな点が評価が分かれるが、ファインダー像安定はレンズ手ぶれの専売。交換レンズを持っていなければαのボディ手ぶれの売りは薄い。ペンタックスも良いが1000万画素の惹きは強いぞ。たぶん。
さて、この勝負、ソニーかキヤノンか年末あたりには結果がでるかな?
連休最後の日曜日にブラブラと電気街を回った。CD-ROMが無くなっていたので買いに出かけたのだが、ワンセグ携帯はどんな風に見えるのか興味があって目に付いたショップに入って小さな画面に映る高校野球の決勝戦を見ていた。
やっぱり見づらい。それに店員さんに聞くと連続では3時間程度しか電池が持たないと言う。3時間で携帯として使えなくなるのはいただけない。
ついでに今使っている携帯の契約をデータ定額に変更できるか聞いてみた。最近WEB検索やメールなどデータ通信で結構高額になる為だ。でもWINじゃないので駄目だと言う。よく判らなかったのでどれならいいのと聞くと写真の携帯を勧められた。9,800円との事だったのであっさり決めてしまった。これはウォークマンとして使っても30時間も電池が持つらしい。何も考えていなかったが、コンデジは昔からソニー、どちらもMS-Duo対応なので共有できる。また、スライド式が意外に使いやすいので結果オーライだった。でも、暫くは使い方に悩みそうだ。
京都にいる私の叔父は毎年この日をどの様な気持ちで向かえているだろうか。今日は写真も無く、話も長くなるが自分の身内が体験した戦争、私の感じた靖国問題などをつたないながらも話してみたい。
父も叔父も徴兵で出征していた。父は満州へ、叔父は満州から更に南方へ行った。父は看護兵として直接前線に出る事は無かったが、後方にいても戦病兵の看護でA型パラチフスやその他死亡率の高い伝染病を患い死線を何度も彷徨った。また、サイドカーに乗れたので病気で倒れた運転手の代わりにいっとき憲兵に使われ、その間に解放軍のゲリラにあってこれまた死線を彷徨った。ある時、中国人の農民と幼子がサイドカーのボートに乗った憲兵に近寄ってきてかごに入った野菜をくれようとしたのだが、手榴弾が入っていたそうだ。父は傍らにいた憲兵の行動により無事だった。ただ、自分が手足バラバラに吹き飛ばされるのは嫌だが、それでも「子供を殺さんでもええやろ」と言っていた。
叔父の場合はもっと悲惨だった。2000人の部隊がわずか数名生きて帰ったのみ。叔父は戦争の事を黙して語らなかったが、大病をしてからポツリポツリとその悲惨な体験を話すようになった。悲惨は叔父側だけではない。殺された側も悲惨だ。満州から南方へ移された部隊は各地を転戦し、主にはイギリス軍、インド軍と戦ったと聞く。弾が無く、銃剣も無くしたのでトーチカに手榴弾を入れた後、出てくるイギリス兵を銃把や岩石で撲殺したとの事。『何か言っていたがそんなの判らん、判っているのはわしらを殺すつもりで撃ってきた事だけや』と時折目を潤ませて話していた。
大勢仲間が死んだ。塹壕から隣の兵が頭を出した瞬間に叔父のメガネが真っ赤になって見えなくなった。横には頭半分を無くし、さき程まで食い物の事を話していた友が痙攣していた。それ以来、塹壕から頭を出す時は先にこぶし大の石を置いてから頭を上げる様になった。少しでも生き延びる為の知恵だと言う。
行軍の最後に叔父は行き倒れた。助けてくれたのはインド兵だった。いったいどう言うルートで彷徨ったのか?捕虜期間中、栄養失調にマラリアで助からないだろうと言われていたのが一命を取り留めた。殺されると教えらた捕虜になっても軍医のイギリス人と看護のインド兵は終始優しかったそうだ。
また、戦後日本に復員する船でコレラが発生、日本がすぐこそに見える沖合いで何週間も待機させられた。当初は薬も無く、感染者を生き死に選別する。そこでも叔父は生き延びたのだが、既に自宅には戦死の知らせが相当以前に来ていた事を復員してから知り、敵と思った人に思いがけず優しくされ、命を懸けた国から見放されたと感じたと言う。
叔父は二人いた。上の叔父は軍需工場である名古屋の三菱重工に勤めていてB29の爆撃で死亡した。私の母が名古屋へ行って身元を確認した。顔面が半分以上潰されて判らず、衣服と体の特徴で判ったと聞く。母が行ったのは祖母が倒れたからだ。
戦後60年を過ぎ、身近に戦争体験を語れる人が少なくなってきた。叔父は極限の飢えを知らない飛行機乗りではない。叔父の言葉を借りると伸びると抜かれる草だった。飢えて、飢えて、人の生き血さえ欲する草が語る戦争こそ本質であり、そこに救いは何も無いと感じる。同じ死ぬにも帽を持て見送られる飛行機乗りの覚悟とは違う。草として戦い、業火に焼かれ、追われ、草として倒れたのだと話を聞いていた。
生き残った叔父はある機会を得て悲惨な体験を僅かづつでも何かに書きとめようとしていたが、思うように進まないようだ。今日来る五山送り火に手を合わす叔父が思い浮かぶ。
靖国の話をしよう。私のつたない感想だが、首相の批判されるなら「いつやっても一緒なら8月15日」と言う発言には同意できない。やはり8月15日、16日と言う日は行って欲しくなかった。公人にしろ、私人にしろ参拝その物へ異論は無いが、日は選ぶべきだったと私は感じる。首相の言う「ともらいと誓い」なら新年でも大晦日でもいいじゃないか。いっそ毎週何曜日、いや8月15日を含む365日なら誰も文句を言わなかったかもだ。
もう一つ考えてみよう。靖国神社で問題視されているのはその祭事においてお寺の様な死者への哀悼や冥福を祈る物が無い為ではないだろうか(この事、間違っているか?)。
私の認識では靖国神社は戦争で死んだ人を顕彰する為のみに存在し、各々の時代の国難を救った英霊を祀り、褒め称える為にあると思っている。無論、それ自体に異論があろうはずは無い。国を守る事は全てを守ることであり、そう信じて亡くなられた幾100万の人達に対して後からの者は二度と過ちは犯さないと誓うのみである。
そしてこの誓い方に疑問を投掛けるのが中国、韓国の立場である。今度の戦争が日本の国難を救う(守る)為かどうかは関係なく、侵略戦争であったの位置づけがなされている事を各々の戦後教育を見ても判る。一方日本の教育はその戦争の位置づけを明記していない。少なくても私は歴史年表で年号と事象説明(一部のみ軍部の独走とあった)を受けただけだ。靖国神社の祭事が軍国主義と繋がりがある(と主張している)事、歴史教科書への侵略の記載を拒む事こそが日本はまだ軍国主義を望んでいる証拠なのではないか?またそのように教育された彼の国の子弟からの強い批判、行動に繋がっていると思う。
靖国問題は個の問題で終わる話ではない。「侵略のありよう」を日本の戦後教育を含めた歴史認識として国民全体で受け止めろと言う強いメッセージと感じる。侵略戦争に到る背景を事実として教育の場で今後の日本人に知らせる事が長い目でみた戦後教育、靖国問題の解決手段と私は思う。事は日本人の歴代指導者の中にある侵略と言わない問題であり、国内問題ならそこを曖昧にしてきた責任は大きい。この時の国難とはなんぞやと言う説明は児童、学童時代は一切受けちゃいないのだから。そして戦争で亡くした多くの命を受け止め、指導者を選ぶと言う事はどう言う事なのか(当時は国民全部に選挙権は無かったが今は成人なら全員ある)北朝鮮を例に出さずとも判る事なので、そこをみっちり教える事こそ民主教育と思う。
また、軍国主義に教師の果たしたは役割は大きい。戦前、戦中の教師はどのような指揮の下でどのような教育を子供達してきたか、軍国主義とはどう言う事を言うのかを今の人に伝えるべきだ。生きているなら最後の責務を果たしてもらおう。そして軍国主義と国防との違いを個々で考えて貰おう 。その代償はあまりにも大きかったのだから。
その上で、堂々と中国の天安門虐殺、ベトナム侵攻、東シナ海侵略、韓国の竹島占領など、国難を救う事全てが他国に対しても、あるいは自国民に対しても常に正義かと言い返してやればよい(同じ事をアメリカには言えないな、たぶん)。また、それほど一人立ちを望むなら戦後賠償代わりのODAは即刻停止し、幼子の成長を喜び仕送りを止め、今後国際社会で競争と協力を対等にすれば良いと思う。相手は既に宇宙へも人を送り込む立派な大国だ。宇宙開発を成功させている国に今更ODAもないだろう。喜んで手を引いてやればよい。
長文、駄文で失礼。ただあまりにも多くの意見があるのだが、各々国民として感じる事は自由であり正解と思うので場末のブログであっても言い放しておきたかった。
流石にお盆だ。今日は風があるのとお盆のお休みでくっきりはっきり生駒の山々が見える。早いものであれからまた1年、夫婦たいした事も無く過ごせた事に感謝し、四天王寺さんへお参りに行く。
少し早く来たのでまだまだ日差しは強く、西に傾いたお日様が容赦なく照りつける。雲ひとつない、抜けるような青空。参道には色々なお店が並ぶ。固焼きが好きで、買って貰って歯(乳歯)が折れた事もあったと記憶する。40年以上前だが何故か覚えている。
慣れない毛筆で先祖代々之霊や水子之霊と書く。四天のおねーちゃんの字より自分で書くほうが多少はましだろう。回廊側では老練なおばあちゃんがいるが、やっぱり自分で書く。
金堂と五重塔。桜の咲く季節にも来たが、お盆はまた特別な雰囲気がある。御霊が集まっているんだ。
法要が午後6時30分からなので、あちこちお参りする。写真は北鐘堂で、この日はずっと撞き続けている。お店の内容はだいぶ変わったが何十年も変わらない景色だ。
亀井堂、供養を済ませた経木をここで流す。井戸があり水が溢れている。少し南側の安居の井と言い、上町台地は少し掘れば水は噴出してくる。
ご存知、四天王寺さんの亀の池。子供の頃にここで甲羅に名前を書いた亀を放した事がある。最近は外来の亀が多い様だ。
亀の池の北側にある六時堂。四天王寺の中心的なお堂だが、前にはおもかる地蔵さんがある。持ち上げると願いがかなうときは軽く、かなわぬ時は重いと言う。『宝くじ3億円ゲット!』と念じながら持ち上げたが軽かった、、やった!
回廊を望む。柱が微妙にエンタシス。小学校や中学の社会歴史の授業を思い出す。
まだ時間が早いので蝋燭もまばらだが、これが時間前になると一杯になる。供養をお寺に申し込まない人は勝手に好きな所に立てる。毎年、何となく決まった所に立てている自分がいる。
法要まで1時間近くあったのでちょっと日陰で休憩。この日は風があり、湿度も低めだったので過ごしやすかった。瀬戸物などのお店があり、家内は忙しく品定めしていた。
こうして見ると五重塔の大きさがわかる。この日はこの塔に人が入っていた。一番上まで上れるようだ。聖徳太子の様にかまどから昇る煙が見えただろうか?
午後6時15分、いよいよろうそくに火が入り始める。アルバイトの学生さんが馴れた手つきで火を入れる。風が強い日だったので途中で消えるのもあったが、ちゃんと見ていて再び火を入れていた。
我が家のろうそくにも無事火が入る。合掌、毎年の事だがこの瞬間に色々な思いが胸をよぎる。
まだ日が落ちきっていないので周囲は明るいが、境内に流れ始めたお経が人の口をふさぐ。
境内のろうそく全てが灯る頃、法要が始まる。この1年の無事を感謝しながら来年も夫婦二人で来れる様にと願う。お盆といい、正月といい、目に見えない物に感謝しないといけない事は多い。
8月7日~8日の2日間、四国は香川と愛媛に出張へ行ってきた。おりしも台風7号が接近し、四国上陸か?の緊迫した気象状況の下、勤勉だけが取り得の中年サラリーマンはその責務をまっとうすべく単身四国へと渡る。
岡山駅から快速マリンライナーに乗車し高松へ向かう。車中は夏休み中でもあり、結構な混み具合。外人さんのバックパッカーも沢山見かけた。これからお遍路さんとなるのだろうか?私は勤勉実直が取り得なので寝る。
うとうととまどろんでいたが、車窓を流れる景色を見ているとついつい日本の原風景に目を取られる。子供の頃に良く見た夏の風景がそこにあった。
列車はいよいよ本州と四国を繋ぐ瀬戸大橋にさしかかろうとしている。窓の向こうには遠く四国の山並みが見える。さらば本州よ、、私は勤勉なサラリーマンなので感傷に浸る暇は無い。
さて、列車は澱みなく瀬戸大橋に差し掛かる。眼下をひっきりなしに貨物船が通過する。本当に過密地帯だな。
橋は2層構造になっており、上を自動車専用の道路が通る。時折通過する車の影が見えるが通行量は少なそうだ。
いくつかの小島を中継しながら列車は進む。橋ができた事で小島に住まれる方は便利と不便の両方を手に入れたのだろうな、、などと勤務中は余分な事は考えない。
高松到着。マリンライナーのお顔がウルトラセブンに見えるのは私だけだろうか?いや、テッカマンかも知れない(写真は時間を違えて撮影したもの)。
高松駅での乗り換え時間は15分しかないので簡単に昼食を取る。無論うどんだ。夏は冷やしぶっかけじゃこ天うどんに限る。これで490円はうまいの一言だし、本場讃岐うどんは存外腹持ちが良い。
さて、食後の余韻に浸る間もなく職務へと急ぐのであるが、次に乗る電車がワンマンディーゼルとはこの時初めて知った。でも、なんでアンパンマンなんだ?
無事、午後からの仕事をこなし、これから松山へ移動する。乗車駅はJR屋島駅だったが、屋島と聞くと源平合戦で那須与一が見事に平家の扇を射落とすと言うシーンが有名だ。
知らなかったがイサム・ノグチ美術館なる物も近所にある様だ。また時間のある時にでも寄ってみたいと思ったが、勤勉なサラリーマンにはそんな意識的怠惰は許されない。しかし暑い、熱い、アツイよ~!頭の熱ヒューズが切れそうだ。
ひなびた屋島の駅には夏の午後があった。学生さんの姿もなく、炎天下に外出するお年寄りもいない。私一人が夏の汗をぬぐう。手に持ったスーツが真夏の光を一杯吸い込んで重くなった様な錯覚を覚える。
再び高松駅に戻る。会社に今日最後の定期連絡を入れた後に松山行きの列車を待つ。ここでビールの一気飲み。ホームで牛乳を飲むように立ち飲み1本、一息も入れずだった。一言弁明すると、勤勉な私は就業時間中は出張移動中と言えども一切飲むことはない。が、10秒でも過ぎれば私の時間なのでやっちゃいます。
ちなみに普段なら高松から松山まで直行の「いしづち」があるのだが、今はお盆シーズンと言う事で直行が無い。写真の「いしづち」も多度津までに運行変更されていた。
そのせいか列車はがら空き。更にビールを2本買い込んで、まだ癒されぬ体に芳醇な麦の化身を流し込み続ける。やばい、寝てしまいそうだ。
宇多津で岡山発の「しおかぜ」に乗り換える。混んでいたがなんとか自由席の座席を確保できた。途中で瀬戸内海が見えてきた。時折見える夕日が美しい。
JR松山駅到着後、インターネットで予約してあった駅近のビジネスホテルにチェックイン。道後温泉まで行こうとしたが流石に今日は疲れている。ホテルの前に写真の健康ランドの様な銭湯があったので今夜はここで汗を流す事とした。ホテルでは優待券を売っており、550円が250円と割り引かれる。簡単な夕食を済ませてホテルを出る。路面電車の後ろには丸い大きな月が出ていた。
一応天然温泉と書いている。松山なら適当に何100mも掘れば出てくるのだろうか。雰囲気は健康ランドと言うより単なるでかい銭湯。
写真の様にもともとパチンコ屋か何かが入っていた所に無理やり作ったような、ちょうど展示会場の様な雰囲気。中は11の湯船と3つのサウナがあり堪能した。あれこれ湯船を巡り、1時間も入った後で休息コーナーでまたビール。生300円は良心的だ。今日流した汗分は補給できた感じだ。
夜の松山駅。風呂の後にふらふら夜風にあたりながら散歩する。植え込みの影が突然動いたと思ったらサイクラーだった。それも高校生風が一杯。いつの世も若い人のやる事は似ているな思いながら彼らの旅の安全を祈る。
ホテルに戻り、最後にパソコンを本社サーバーに繋いでメールや決済書類の確認をする。11時までかかったが、台風のコースをTVでチェックして普段よりずいぶん早い時間の消灯。本日はここまで。
一夜明けた松山駅。朝から寒暖計はうなぎ上りで額には汗が光る。上り列車を待つホームで台風の行方を最終確認。どうやら東にずれたようだ。でも、帰りの飛行機が大丈夫か気になるが、中年サラリーマンはひたすら職務をまっとうするのが本意だ。
無人駅がほとんどなので整理券を受け取る。夏場でも自動でドアは開かず、乗るとき、降りる時は開閉ボタンを押す。単線なので駅で止まっている時間が長い為だろう。冬の北陸や山陰地方では普通だが、夏なのにドアが開かないので最初は面食らった。
2両編成のディーゼル。この後、向かいの席に初老の男性が座る。首からカードホルダーを提げていたので見るとは無しに見てしまうと「青春18キップ」が入っていた。この方、ローカル線で一人旅をしているのだ。中々いい時間の使い方だなと思う。いかん、いかん、勤務中に余分な事を考えちゃいかんぞなもし。。
最初に降りた駅は予讃線の堀江駅。無人の上に駅舎はなんと貨物コンテナ改造品だった。中は地獄の様に暑くなっていた。カバンに入れていたネクタイを装着する。一気に体温上昇を感じる。でも、大きい剣と小さい剣を重ね合わせるネクタイは企業戦士の証、にじむ汗をぐっと堪え(無理だっちゅーの!)、盾となる筋肉養成カバン(約6Kg)と鎧となる青山の清涼スーツを持って戦いの門をくぐる。
堀江駅前。松山駅まで10分程度、沢山の自転車があるので通勤に利用している方もそれなりにいらっしゃるのだろう。台風はあっちへ行ったが、変わりに太陽がどっしりと居座り既に30度を超える。もう背中はぐっしょりだが、できるだけ涼やかに移動したい。あれ?タクシー乗り場が無い。うろたえるな、ちょっと情報が違うだけだ!
お客様の所へタクシーで行くつもりだった。でも駅前には何も無い!。お客様も普段電車を一度も使った事の無い方だったので(マイカー通勤)事情が分からなかった様だ。情報戦士は常に持ち歩くパソコンで地図を出して調べ、そして歩いていく。徒歩15分のはずだった。。。。
違和感がある。きゃそぺーんって何だ?ンとソがごっちゃになっている。農協の青年がカタカナを間違えちゃいかんぞなもし。誰も注意しなかったのか?指導者としての血が騒ぐ。
痛恨の一撃。既に道を間違えていたが、この時は気づかず。川に突きあたり橋を渡るのだが上流と下流に橋があり、頭の地図では上流側だった。既に汗だくで、より田舎度が上がって行く風景の変化に気づかず。流石の私もリゲインを飲んでいなかったので、この後は書く事もできない位に疲労困憊した。
目的地にたどり着いたが、30分の余裕がゼロだった。□の字を描くコースを I で行けば良いのにコの字で移動した事になる。お客様の所へ着いた時には壮絶な状態になっていた。でも間違えたのは私、渾身の力でにこやかに商談。さぞやお客様も不気味だっただろう。溶けかけの雪だるまみたいで。
午前の商談を済ませて更にJRで移動。今度はタクシーを呼んでもらい、涼やかに移動できた。滅私奉公とは言う物のこれ位は許して貰おう。田園の中をゴトゴトと揺られながら進む。午後の仕事も中々ハードで以下省略。一日の仕事を終えて、日も傾く頃に空港へと移動を開始する。
松山空港にて。台風の影響はここ四国では全く無く、晴天の重すぎる太陽の光を一日中浴びる事となった。尚、飛行機で帰る場合はまず最終便を予約しておいてから、空港到着後に空いている早い便に可能なら変更する。
若い人はこれができない。空いていないと困ると先にそれを言う。遅れる事を気にするので商談が長引く事を嫌い、遠くのお客様の所にいるのに心ここにあらずとなる。本当にそうなら今日は何時の飛行機に乗るから「これとこれを先に決めましょう」と最初に断ればいいのにそれも言えない。経験上、早い便への変更がNGだった事は無いのだが、指導者失格である。
ちなみに私もその若いやつの一人だった事を忘れている気がするが、サラリーマン忍術の一つに忍法『忘却の彼方の術』がある。それを使った気がする。この他にも『担当者に変わりますの術』や『責任転嫁の術』など処世忍法が経験値に応じて習得されてゆく。
定刻通りの飛行機の出発時間。全く台風の影響は無い。本日搭乗するのはANAのA321だったか。以前乗ったのはターボプロップ機だったが、今回は結構大きな飛行機だ。
さあ、離陸である。携帯の電源は確かOFFにしたはずだが、、あれ?切り忘れた気がするぞ。誠実をモットーとするサラリーマンにはあるまじき行為だが、ユナイテッド93便では機内からの携帯で様子が一杯わかった事だし、いや必ず切っていると自分を勝手に信じこませる『思い込みの術』を発動させたのだった。
軽やかに離陸。既に眼下には瀬戸内から太平洋が広がる。この瞬間がなんとも好きだな。
蒼天を貫く様に飛行機は上昇する。風は無く気流もあまり乱れていないようだ。この後直ぐに水平飛行に。
眼下には四国の山並みが見える。ただ、B29も避けて通った乱気流で有名な石鎚山は見る事ができなかった。
眼下に雲海と四国の山並みが良く見える。日が傾いてきた為か、少し伸びた山の影が起伏を強調させる。険しい山が多そうだ。
太平洋が広がる。大阪に近づく頃には雲が増えてきた。
気圧の谷が見えるような景色だ。晴れと曇りがある境界ではっきり別れていた。激しく翼が震え、機体も上下に揺れるようになってきた。時折下から突き上げる様な振動がある。飛行機の翼がまるで羽ばたいているように見える。気流が乱れているんだ。
写真の撮影は中止し着陸をしばし待つ。そして無事伊丹到着。雨が降っていなくて良かった。と言うか良い天気だ。
暑かった2日間の出張を無事終えて大阪帰着。予定より早い便で帰ってきたが、このまま直帰させて貰う。
夕暮れ迫るエアポート。この後の夕焼けはすさまじい物があった。世界の終わりかと思う程の真っ赤な景色にしばし写真を撮るのも忘れてしまい、そのまま地下鉄に潜ってしまった。この日の夕焼けは太平洋側では各地で見られた様で見事な夕焼け写真があちこちで見かけることができるが、残念無念。
という事で炎暑の中、2kgも痩せて帰ってきたが、次の日の夜にはプラスに転じていた私であった。
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